兵庫県たつの市。姫路市の隣に位置し、「播磨の小京都」とも称されるこの町は、450年の歴史を持つ「薄口醤油」の産地として知られています。さらに、全国的な知名度を誇る手延素麺「揖保乃糸」や、高品質な「皮革」産業も根付く伝統文化の宝庫です。しかし、昨年12月3日に古民家を再生した「龍野紫水亭」をオープンさせた淺井氏は、あるジレンマを感じていました。それは、素晴らしい伝統産業がありながら、町の風景やその価値が正しく伝わっていないという危機感です。
伝統を守ることと、新しい息吹を吹き込むこと。この相反する課題に、彼は15年という歳月をかけて向き合ってきました。
【薄口醤油のパラドックス】「塩分は高い、けれど料理は減塩」の謎
薄口醤油は、安土桃山時代から続くこの町の誇りですが、その最大の特徴を理解してもらうのは容易ではありません。そこには、ある「パラドックス(逆説)」が存在するからです。
醤油そのものを比較すると、薄口醤油は濃口醤油よりも塩分濃度が高くなっています。しかし、素材の色を活かしたまま味を整える力に優れているため、料理全体で使用する量は少なくて済み、結果として摂取する塩分量は低くなるという不思議な性質を持っています。
色をつけずに良い味付けるというのが薄口醤油の一番の特徴
この「製品は高塩分だが、食生活は減塩になる」という複雑な価値を伝えるため、淺井氏は「体験」を重視しています。その具体策が、メニューにある「鰹節丼」です。客自らが薄口と濃口の醤油をかけ比べ、味の違いを舌で確かめる。抽象的な説明ではなく、五感を通じた「実体験」を提供することで、伝統の真価を再定義しているのです。
【町おこしの鉄則】「自分の店」よりも先に「町」を売る
淺井氏が店を構えるまでには、15年もの準備期間がありました。一見、遠回りに見えるこの行動の根底には、「地域の魅力が上がらなければ、自分の商品も決して売れない」という強い信念があります。
たつの市が誇る「揖保乃糸」でさえ、実はこの町で作られていることを知らない人が少なくありません。地域のブランドが町と結びついていない現状を変えるため、彼はまず「町」という大きな器を整えることから始めました。
- 入り口の多様化: 醤油そのものに興味がない層へ向けて、「醤油バターケーキ」などのスイーツや、子供から年配の方まで楽しめる「醤油饅頭づくり体験」を開発。商売の入り口を広げ、醤油文化に触れるきっかけを増やしました。
- 住民の誇り: 住民自らが「この町が良い」と思わなければ、文化は守れない。外から客を呼ぶ前に、住民の意識改革を促す土壌作りを優先しました。
【外側を残し、中身を作る】100年前の風景を失わないための選択
「龍野紫水亭」は、築100年を超える古民家を改装して誕生しました。30年以上空き家で雨漏りもひどく、中身はがらんどうの状態。正直、建て替えた方が安くて早いのは明白でした。
それでも淺井氏が「改装」を選んだのは、一度失った風景は二度と取り戻せないという確信があったからです。
- 残すべきもの: 100年前から続く柱、梁(はり)、外観。毎日通う道であっても、建物が一度壊されてしまうと、そこに何があったのか、人々は驚くほど思い出せなくなります。その喪失は、町の記憶そのものを失うことに他なりません。
- 作り直すべきもの: 店舗としてのモダンな機能、内装、そして現代のニーズに合わせた「届け方」。
「外側(伝統の形式)」を徹底して守り抜く一方で、「中身(提供価値と手法)」は大胆にモダンへとアップデートする。この境界線を明確に引くことが、100年前の風景を未来へ繋ぐ唯一の道でした。
【地味な継続の力】15年間の活動を支えたのは「議事録」だった
たつの市の町並みが、文化庁から「重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)」の選定を受けるまでには、行政や住民との気の遠くなるような合意形成が必要でした。この困難なプロセスを支えたのは、派手なイベントではなく「徹底した地味な積み重ね」でした。
活動の鍵となったのは、毎月の部会開催と「議事録の作成」です。
- 継続の可視化: 参加者が少なくとも毎月必ず集まり、議論を記録する。この一歩一歩が、後に行政へ働きかける際の「我々はこれだけ真剣に取り組んできた」という揺るぎない「証拠」となりました。
- 逆境の転換: 定年を控えて消極的な59歳の行政担当者という壁さえも、「自分たちがやるしかない」と住民の心に火をつける材料に変えました。
「一貫した継続こそが、正当性(レジティマシー)を生む」。派手さはないが、この地道な記録の積み重ねが、市長の交代や行政の方針転換という「一瞬のチャンス」を掴むための唯一の備えとなったのです。
未来への問いかけ
「残すべきものと、作り直すべきものを明確に分ければ、道は前に進んでいく」
淺井氏のこの言葉は、地域再生のみならず、あらゆるビジネスや人生の選択に通じる本質を突いています。私たちは変化の激しい時代の中で、何でも新しくすればいいわけではなく、かといって古い形式に固執するだけでもいけません。
あなたにとって、仕事や生活において「変えてはいけない核」は何でしょうか? そして、時代に合わせて「作り直すべき中身」は何でしょうか?
昨年12月に産声を上げたばかりの「龍野紫水亭」。そのカウンターで、薄口醤油の深い味わいと共に、あなた自身の「守るべき境界線」を探してみてはいかがでしょうか。
龍野紫水亭(たつのしすいてい) 姫路から車で約30分。城下町の入り口、築100年の空間で皆様をお待ちしています。 最新の情報や活動の様子は、公式Instagram(@tatsuno.shisuitei)をぜひご覧ください。













